プロフィール

【経歴概略】
■1958年:石川県金沢市に生まれる、同年飲酒運転の車により父を亡くし、母の実家のある小樽に移る
■1981年:北海道大学法学部卒業
■1981年:日本鉱業入社(後にジャパンエナジー⇒JX金属) 希望通り電子材料部門営業として配属される
■1981年から88年:営業基幹システム開発プロジェクトで業務設計責任者となり、完成後の運用を軌道に乗せる
■1980年代:広瀬隆「赤い縦:ロスチャイルドの謎」(集英社)で世界の成り立ちを認識
■1993年:「ある町の高い煙突」が倒壊
■1998年:営業係長としてハードディスク材料事業でトップシェア達成、1兆円・6000人企業で最高査定、翌年度の課長昇進が決まる
しかし、企業再編の中で、定見なく新規事業を廃止する経営層に義憤を感じ、
廃止された事業を自ら商社として継承した同期の友人が経営する僅か5人のベンチャー企業に転職
■1998年から2004年:米国製放送局向け映像伝送システムの輸入販売事業責任者として、NTTでの採用を皮切りに社員23名まで業容拡大、同分野のエキスパート企業に育てる
■2005年:製品トラブル・事業撤退:NTT経由でNHKに納品した装置で異常発生。米メーカーが解決ギブアップで1億円の補償を負うだけでなく、評判が業界内に広がり中核装置が売れなくなり事業撤退、ベンチャー企業退職
■2005年:バッファロー入社 法人営業マネージャー:ランチェスター戦略企業。パナソニック出身役員からの幹部研修。
■2014年:千人規模の日系ベトナム現地法人に、取締役総務人事部長として採用され、ホンダを範にした組織体制整備実行
ベンチャー企業で自身に欠落していたのが、組織活性化ノウハウと悟る
■2018年:150名ほどのベトナム現地企業で副社長に登用され、日本人に学びたいと応募してくれた知力・人格に優れたベトナム人社員達育成のため、自身の過去の学びを集大成したマニュアルの原型を作成
■2019年~2021年:NTTベトナムにてITシステムインテグレータ事業マネージャとして活動
社長から前年度比1.7倍の利益ノルマ、不達成の場合、部下を削減すると指示され、1.2倍の目途に留まったため、管理職自ら責任を取って退職
■2022年~:著作「中小企業のための不滅の戦略経営」を執筆。セミナープログラムを開発、自らSNS経由での販売を開始。

松任柊二

松任柊二のキャラクタです

一兆円企業の最高査定社員が、転身したベンチャー企業の新規事業で成功後に転落、そこから一千人企業の組織運営で成功し、法人営業と経営を極めた話

プロローグ:

ある夜、日本最大の放送局の放送センター内で、設備の異常を知らせる警報が鳴り響く。技術者達が発生元に辿り着き、それが東京中のキー局からの衛星放送用映像を光ファイバを媒介して受信する米国製の装置であることが分かった。その警報は、主装置で異常が起きたため予備系への切り替えを行うという知らせだが、実際に主装置での異常は無く正常に機能していた。これが幾度となく繰り返され、そのたびに放送センターが騒然となり、関係者に計り知れない負担を強いることとなった。

これは日本最大の通信事業者が放送映像伝送サービスに使用した装置だが、この装置の提供者・販売代理店が、あるベンチャー企業だった。

早速、米国メーカーにこの原因究明と解決を求めたものの、数週間を経た結論は原因不明で対策不可能というものであった。

明らかな装置不良であり、この代理店は代替装置となる他社製品の費用負担を行うだけでなく、この評判が一気に業界内に広まり、このシステムは日本での販売機会を完全に失ってしまった。

この事業の責任者は、放送品質映像をあらゆる手法で伝送するエキスパート集団、ITシステムインテグレータを率いていたが、この装置に代わる次の柱を育て切るに至らず、事業そのものから撤退、職を辞することとなった。

プロフィール:

はじめまして。松任柊二(まっとう しゅうじ)と申します。

私は、一兆円企業及びベンチャー企業での法人営業のプロとしてのキャリアの後、一千人規模の企業で総務人事役員として組織運営を成功に導き、これらの経験を元に販売不振、組織の停滞に悩む中小企業経営者のための著作・セミナー活動をしています。

事業拡大を順調に進めていたベンチャー企業での転落経緯が冒頭の実話です。

この人生最大の失敗の本質的な原因が何であったかは、その後の千人規模の企業の組織運営での成功を経てようやく答えを見出すことが出来ました。

私が何故このテーマで著作・セミナー活動を行うに至ったか、理念だけでなく実務者として中小企業経営者の方々のお役に立てるのかをご説明するため、私の経歴と経験をご説明させて頂きます。

経歴詳細:

1.日本鉱業(後にジャパンエナジー⇒JX金属⇒ENEOS)

大学を卒業後、非鉄金属の国内トップ、石油精製で3位の従業員6千名、売上1兆円規模の一部上場企業で採用頂きました。

この会社は日立鉱山が源流で、その鉱山で構内車両を提供していた部門が後の日産自動車になり、構内エレベータの上げ下げをするモーターを提供していた部門が、後の日立製作所になっています。

新田次郎の「ある町の高い煙突」という小説は、この会社の銅精錬所の排煙が亜硫酸ガスをまき散らして、近隣農家に甚大な被害を与えていたため、ある高さの気層を超えて排煙すれば、拡散して近隣農家の被害を防ぐことが出来ることから、会社が155m余りの高い煙突を立てた実話を基にしています。現在は亜硫酸ガスは脱硫工程を通って硫酸として回収されるため、排気は非常に綺麗になっています。

この精錬工場からの排水は近くの川に流されていますが、それが綺麗であることを示すため、工場入口のロータリーの池で、排水の中でコイを飼っていました。企業の公害対策の草分けで、この企業が持つ企業理念がそこに現れています。

先の大煙突は1915年に立てられ、私がたまたまその工場で勤務していた1993年に1/3を残して倒壊しました。倒壊する際には、人が入らないエリアに倒れるよう設計されていて、実際に全く被害はありませんでした。

この話を聞いて、エンジニアの志の高さを知って、私は人知れず感動の涙を流していました。

私はこの会社の電子材料部門の営業として配属されました。

この部門が私自身の営業の在り方を形成してくれました。

営業部門が毎年、部門役員・管理職を前に、担当事業の現況と予算・実行計画を説明するのですが、この説明者が入社2-3年目の社員だったりします。

各担当は、世界及び日本の経済状況から説き起こし、担当事業の市場の現況と見通し、競合と自社の位置づけ、具体的数値目標・行動計画まで説明を行います。

新卒の頃から、世界と日本経済を担当事業との関連で把握するということをやっているので、常に巨視的視点を持ちながら、個々の顧客対応をしていたのでした。

この会社は各事業分野毎に営業部課を持ち、最終的には営業部門が各事業収支に責任を持っていました。

従って、各担当営業は主要原料・部材の調達も自ら行っていて、

原価に責任を持った上で自社の販売価格つまり利益額を決めて顧客との交渉に臨んでいました。

また、市場の情報を自らの足と統計で集め、市場動向、有力顧客の特定と動向把握を担い、工場が行う設備投資に対して市場予測を提示するのも営業部門の役割で、

それはマーケティング部門と営業企画部門を含めたタスクでした。

もともと、先端部門を含めて事業全体ではトップメーカーの位置にある老舗企業ですが、その先端部門でも多くのトップシェア事業を持っていました。

私自身はここでの教えを忠実に実行し、後発であった担当事業を数年でトップシェアに押し上げ予算を達成し、

転職前の最後の年度は最高位の査定評価を頂くことが出来ました。

予測した通りの成長を遂げる市場に対し、工場の設備投資も行われることになり、全てのレールを敷き終えて、

後は刈り取りを行うだけ、翌年度には課長への昇進が決まっていた、

そんな中で何故辞めるのかと周囲から言われ、

尊敬する部長が慰留して下さったにも関わらず、心の中は涙にくれながら、

その年度の3月末で退職する決断をし、その企業をスピンアウトした友人の経営するベンチャー企業に身を転じたのでした。

当時の社長が社員のモラル向上を業務時間を割いて働きかける活動をし始めたことが最初の失望理由です。

社員のモラルは経営者のモラルが映し出されるものであり、数百億円の事業投資を失敗した経営者が責任を取ることなく、その地位に居座り続けていることこそモラル低下の最大の原因だと思っていた私の、会社を去る決断を後押ししました。

転職理由で最も決定的だったのは、当時の巨大な企業群の合併の動きの中で、本来一つの事業分野としてシナジーを形成出来るはずの立上げ間もない小事業を次々と閉鎖するという経営判断が為され、優秀なエンジニアが営業に担当替えになるなど、経営層に対する怒りと不信感が頂点に達していたためです。

(2)ベンチャー企業:専門商社・システムインテグレータ

まさにその閉鎖された事業の一つを担当していたのが、同期入社の営業の中で最も優秀だと評価していた友人で、

彼が自らの手で商社として事業を担う決断をし、僅か5人の会社を起こしていたところで、彼の誘いを受けて転職を決めたのでした。

企業経営の最大の力は人間力だと思って、トップ営業が二人合わされば必ず成功できる、理想の会社を創るんだと考え、

前の会社の高額且つ安定した給与を顧みず、転職の決断をしたのでした。

次の会社で担当した事業は、それまで関係者の誰もが経験したことの無い、全くの新規分野でしたが、

当時の社長が代理店権を持っていた米国サプライヤーから、その新分野の代理店権を付与してくれるという奇跡的なオファーを貰えたため、ゼロからでも立ち上げてみせる、として引き受けた事業でした。

そこからは、僅かなメンバーのリソースでいかに事業を立ち上げるか、顧客を獲得するかを協議し、戦略を練ってそれを実行して行きました。

この時、所謂マーケティング用語でいう3C分析や、市場セグメントの覇者はどの企業か、といった議論を経て、一点集中で市場の覇者との取引関係を創るシナリオを立てて実行して行き、それが見事にシナリオ通りに実現していったのです。

この時期にふと、自分達がマーケティング用語を使いながらやっている分析は、

前の会社の先輩・上司達が、小難しい用語など一切使わず、まるで空気の中で呼吸するように、当り前にやっていたことだと気付いたのです。

「人として魅力があるだけでなく、凄い頭脳集団だったんだなあ。」

先人達への畏敬の念と共に、こう独り言を言っていたのでした。

伝統ある大企業には企業文化というものがあり、これを優秀な社員達が引き継いで行きます。

現代であれば、そうしたものが手順書になっているかも知れませんが、

言語化されずに伝統や文化として連綿と引き継がれていくものがあります。そして、それらは外部にはなかなか出て来ません。

そうやって、彼等は当たり前に各事業分野でトップの座を占めているのです。

マーケティング、営業戦略に関する書籍・セミナーのパートはこうしたことが背景にあります。そして、その後に自身が所属したり顧客として接して来た中小企業が、悉くこの部分が欠落していることに気付いたのです。

私が最も尊敬する1万人以上の経営者を成功に導いた経営コンサルタント ジェイ・エイブラハム氏が「逆境を飛躍に変えるマーケティング戦略」で述べている問題意識「ほとんどの企業が具体的で明確な将来像を持っていない」と図らずも合致しています。

その後、私が担当したベンチャー企業での事業は順調に顧客を増やして事業を拡大して行きましたが、

あるとき自社に取っての最大顧客での使用中に原因不明の装置トラブルが発生します。それが冒頭で紹介したものです。

これが日本のメーカーであれば、どんなことがあっても原因究明を行って対策を打つところですが、

この米国メーカーは原因不明として対策をギブアップしてしまったのです。

ここからは、自分の会社が代替装置の費用の賠償を背負うだけでなく、

業界内にその話が一気に広がってしまい、それに代わる事業がまだ育ち切っていない、

経営層として行うべき十分なリスクヘッジが出来ておらず、

その事業そのものから撤退せざるを得ないところまで追い込まれてしまったのです。

(3) バッファロー

大きな失意の中ではありましたが、私自身は法人営業を求めていた一部上場企業で採用して頂くことが出来ました。

この企業は徹底した顧客利便性を追求する姿勢と、所謂ランチェスター戦略で市場の覇者となった会社で、それ自体が大きな学びとなったと共に、

ここでは日本を代表する2大メーカー、パナソニックソニーの元幹部の方々が役員として入っており、これらの方々から受けた教育が、自身の管理職としての姿勢を律する上で大きな教えとなりました。

ここで8年ほど務めたのち私的事情で退職し、起業を目指しましたが断念し

次は、過去の知人の厚意で、海外の現地法人で職を得ることが出来、ここから海外勤務を経験することが出来ました。

(4) 日系企業ベトナム現地法人 取締役総務人事部長

千人規模の製造業で総務人事を含めた事務系役員の立場で、

現地法人への日本的経営思想の移植、自身を含めた管理職育成、社内体制整備といった中で、組織運営・人事制度に関わるようになりました。

幹部社員、管理職の育成が企業活動を自律的に回して行く、組織力を上げる上で不可欠であることがここでの経験からの大きな学びとなりました。

最初の2社で法人向け事業であってもマーケティング思考が重要であることを体感して来ましたが2社目のベンチャー企業で一本目の柱とする事業が倒れた際に、次の柱が育っていなかったことから事業全面撤退を余儀なくされたのは、経営理念・ビジョンに発するチームビルディングが出来ていなかったことが原因であったことが、このベトナム現地法人での取り組みを通して理解出来ました。

私一人が突っ走っていて、優秀な部下やエンジニア達の力を組織として生かすことが出来ていなかったために、私のキャパシティが律速となっていたことが悔やまれ、彼等に申し訳ない思いで一杯です。

時が戻せるなら、マーケティング思考は出来ていても、もう一つの「組織化」が全く疎かとなっている事を、このベンチャー企業時代の自分に伝えたかったと感じます。

私の著作・セミナーの動機が、同様の立場にある方々にこのような後悔をさせたくない、という想いです。

企業の経営方針については、社外への宣伝のために実態とは異なる美談が描かれている事例は枚挙にいとまがありません。

そのような場合、顧客と従業員がそれに気づいて企業の求心力は失われ、その企業はいずれ市場から消えて行きます。

私が唱える「経営方針」は、創業者が心の底から願った顧客と社会への想い、自社が果たすべき使命を綴ったものを指します。

日本人が古来から行って来たのは、他者への愛に裏付けられた思いやりを行動に移すこと、それによって自身が生かされ喜びに満たされる営みでした。

ここまでの実務経験、老舗企業が持つ良質のもの、マーケティング・事業戦略思考、更にこれに加えてバッファロー時代の幹部研修で得た経営層の矜持、同社の徹底した顧客利便性志向、一千人企業での組織活性化の取り組みを、一つのまとまった施策として実施することで、経営を成長軌道に乗せることが出来ると考えるに至りました。

(5) ベトナム企業 副社長

その後、150名ほどのベトナム現地企業で日系企業向け営業管理職として採用頂く機会を得て、試用期間明けに副社長就任の辞令を頂き、営業活動だけでなく、組織体制の整備に力を注ぎました。

この時期に優秀且つ人徳あるベトナム人数名を採用し、育成する営みの中で、自身がこれまでに得た知見を彼等に全て伝えて行こうと考え、ドキュメントを英文で作成していったものが、私の現在の日本語著作・セミナーの原型になっています。

この時期に、全ての行動原理の根底に他者を思いやる気持ちが無くてはならない。「愛」こそが全てだという結論に達しました。

それを親しくしていた日本人の現地法人経営者に見て頂いたところ、非常に為になる、多くの中小企業を救うことが出来るのではないか、という言葉を頂いたのが、これを出版・セミナー化するに至った原点になっています。

ジェイ・エイブラハムを私が尊敬する理由の最大のものは、彼の基本理念です。

他者への愛が思想の根幹にあることです。先の著作で「顧客・取引先・スタッフを愛し、彼等に対する仕事、理解、敬意、感謝を通して、彼等の生活をより良いものにしようと心から思うことが必要だ。」という彼の言葉は、これも図らずも私の著作の基底にあるものと同じでした。

その後、組織体制整備については社長を含めた幹部社員が自らを改めるべきこと、

社員に対する公正さを身をもって実践するべきという点について、社長の理解を得るに至らず、結果として1年強でこの会社を離れることとなりました。

社長の立場になった時、多くの人が自分のやっていることが絶対的なものとなり、

とりわけ倫理的な問題に関しては心を閉ざしてしまいます。裸の王様になってしまうのです。

このような指導者の居る会社を社員達は選びません。

自分達が社員を選ぶのと同時に、社員から選ばれる経営者でなくてはならないのです。

(6) 日系企業ラオス現地法人

ベトナムを離れて別の国に移っての就業機会となりましたが、社員は恐怖と報酬(金)で動くという経営者方針のもと、

次々と飴と鞭の施策が打ち出されるも、従業員が真に企業目標に向かって行動する動きは見られませんでした。

この原因は企業理念そのものが無いことと、人は何によって動くかという根本的な問題に対して誤った答えを充てているからに他なりません。

(7) 日系企業ベトナム現地法人 営業マネージャー

最後の就業機会は大手システムインテグレータのベトナム子会社での日系顧客向け営業課長職でしたが、

年度の利益目標が前年度比1.7倍に設定され、これに向けてあらゆる策を講じたものの達成メドが立たず、

利益目標に達しない場合は、部下の営業課員を削減するとの方針であったため、管理職として自ら責任を取って職を辞する決断をしました。

(8) 著作・セミナー業

現在は自身のこれらの実務経験を活かし、出版・Webセミナーを生業としています。

著作、ブログやYoutube、セミナーを通して私自身が伝統企業にあって受けた教えと、尊敬する経営層の方々、数々の反面教師との出会いで得た経験の総体が、営業戦略と経営の道標として意味があると考え、これら経験をお伝えする活動をしています。

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(9) 学歴、名前の由来

札幌東高等学校卒業

北海道大学法学部卒業:

小中高通して塾というものに一切通ったことが無いなか、ストレートで北大に合格し卒業する程度の知力はあるのですが、これを自慢も卑下もしていません。

当時の日本鉱業は旧帝大と早慶を主体にした新卒を先輩が声掛けして採用していましたが、

そこに採用試験を受けさせてくれと自ら会社の門を叩いた東京経済大生が見事採用されました。私が同期の中で人格・知力とも最高だと思っていた人物で、後に私が身を転じたベンチャー企業の社長が彼です。そのため私自身は学歴信仰が一切ありません。

松任柊二の由来:

ペンネームの苗字は出生地名です。現在は金沢市に合併されて存在しなくなった地名へのノスタルジーから使用しています。

下の名前は11月生まれの息子につけようと思った第二候補の名前で、冬に可憐な白い花を咲かせる邪気を払う縁起木である柊に、

人格高潔ながら洒脱なユーモアセンス溢れる自慢の兄を持つ次男の意味を加えました。